半世紀かけて1500座登頂の76歳
高木 忠さん
1927年、大阪市生まれ。旧制堺中(現三国ケ丘高)から陸軍士官学校へ。世が世であれば高級軍人になっていたはずだが、人生行路は大激変。もっとも、その経歴が高木さんを山好きにさせてくれたというから世の中は面白い。
旧制中では詩吟部。国威宣揚の詩吟を寺社に奉納したりしていたが、指導の先生が山好きで、吟行登山といって近郊の低山をよく登り、山の楽しみになじんだ。士官学校では戦局、急を告げて長野県の浅間山ろくに教室疎開。ここで初めてみる白樺の林や雪に覆われたアルプスの美しさに山への憧憬が募った。
戦後、改めて旧制六高、京大卒、商社勤めのかたわら職場の山岳部で山歩きに熱中、上司から小言をくらったことも再三とか。
同い年の吉子夫人との間に2男。絵を描く夫人は高木さんの山行の三割くらい同行している。著書に『山を想う』『千山漫歩』『歩いて登って50年』。大阪府高槻市在住。
高木さんの自宅の最寄りの駅で待ち合わせた。実に勢がいいスリムなお年寄りが改札口近くにたたずんでいて、面識がなかったのに一目で高木さんに違いないとわかった。
なぜか登山家には体躯隆々の偉丈夫というタイプが少ない。あの偉業を果たした植村直巳さんも山野井泰史さんも特別恵まれた体躯の持ち主とは思えない。高木さんにも、きっとそうに違いないという先入観を持っていた。
それにしてもだ。いきなりお尋ねした体重はなんと39㌔とおっしゃる。小学生高学年並みか。その痩身で全国の山を駆け巡り、1000座踏破、いや1500座完登とは信じられない。背丈は普通なのだが、胃下垂が持病とあって蒲柳の質気味。いつも下痢と便秘の繰り返し、壮年時代でも50キロそこそこだったという。
なにしろ気管が弱いので、風邪引きやすいとすまして話される。山の達人ともいえるハードな体験者に「みんなの役に立つ」身体鍛錬や健康法を聞き出そうと考えていた思惑はすっかりアテが外れた。まじまじと高木さんを見つめたら、柔和な目が笑っていた。
どうやら高木さんは天賦の条件を生かして思う存分に登山趣味に耽溺したのではなくて、強い精神力で目標を達成するタイプ。「継続は力なり」を絵に描いたように実践した人のようである。
およそ20年ほど前のこと。当時、高木さんが勤めていた商社の定年は55才だった。50すぎたころから、定年後のことを考えていたから第二の勤務先行きを会社から打診されたとき、すぐに心が決まった。
「よっしゃ、これからは山歩き一本で行こう」
難関の「六甲全山縦走」である。六甲山系の西端、神戸市垂水区から東の宝塚市まで総延長56㌔の尾根と谷が続く。全国の健脚登山者あこがれのスーパー難路である。
昭和56年10月、妻の吉子さんの「大丈夫なの、いいトシして、、」と案じる声を背に暗闇のなか、家を出た。それまでざっと30年の山歩き歴があったが、職業人生の節目に六甲全山縦走をこなして定年後の跳躍台としたい思いに駆られたのだ。
定年後の山行――。高木さんは、こんな構想を立てていた。一つは、深田久弥の『日本百名山』をチェックしたら、すでに80座登っていた。残る20座をまず完登しよう。
もう一つ、元日本山岳会会長、文化勲章受賞者の今西錦司さんが80才過ぎているのに1500座目を奈良・白鬚山(一三七八㍍)で達成したニュースが報道されていた。これに刺激されて、約半分の800座登山を目ざそう。こっちの方は少年のころから登った山を勘定したら、あと370座と判明した。
独りでチャレンジした六甲全山縦走は、懐中電灯で足元を照らして歩き始めて、約13時間かかったが、歩き通せた。こうして高木さんの山行構想は実行されることとなった。
なにしろ、有名無名を問わず山のガイドブックを手掛かりに全国の山を登り巡るのだから、交通費一つとってもべらぼうに金がかかる。ここはケチケチ節約登山に徹した。もっぱら格安の青春18切符を重宝したうえ夜行電車で宿泊代を浮かし、乗り継ぎや夜明け待ちは駅の待合室で明かした。衣類もめったに新調せず、普段着の使い古し、破れた靴下は重ねてはいた。冬山用のオーバーミトンも妻に手づくりさせた。
胃が弱いにも関わらず、食事も粗食に徹した。梅干一つ、飯の真ん中に沈む日の丸弁当を愛用した。粗食に耐える体づくりと称してパンの耳ばかりを食べたこともあり、山仲間にも勧めたら、さすがに不評を買った。
家は雨漏り、妻にスカート一枚買ってやらず、子育ても妻任せ、母親の病気のときも、正月休みも、取りつかれたように東奔西走の山嶺行脚―――。
「そこまでしてと思うでしょうが、行きたいと気持ちが高まると、もう止まらない性分ですね。がむしゃらですわ」
高木さんは両頬を両手で覆い、視野が狭くなったポーズをして見せて苦笑した。
生活費を切り詰め、暮らしの雑事に目をつむり、山歩きに集中した結果、平成4年9月、ついに目標の800座に到達した。記念の800座目は、静岡県の大無間山(だいむけんざん・二三二九㍍)とした。名前がよく南アルプルス深南部というのが気に入った。急登の連続に難儀したが、山中の無人小屋で一泊して達成した。
65才になっていた。このとき、すでに百名山の方は利尻岳(一七一八㍍)を最後に踏破ずみだった。定年後の山行構想は士官学校ふうに言えば、「ワレ初志ノ目標ヲ貫徹セリ」ということになった。
意志の人、高木さんが凄いのは、これで満足しないことだった。大無間山からの帰途、大井川鉄道駅前の自販機から買った酒で祝杯をあげつつ「ここまでくれば、次は1000座だ」と決意、新たな目標を設定した。
三年三ヶ月後の平成7年12月、1000座目を奈良県・笠捨山(一三五二㍍)で吉子さんとともに迎えた。修験の僧が修業間近にホッとして編笠を脱ぐといういわれの山で、高木さんは吉子さんにこう言った。
「これでもう笠を捨てたわけではない。こんどはもっと味わいある山歩きをしよう」
ことし二月、吉子さんと長崎県の九千部岳(一○六二㍍)に登った。せっせと歩き続けた結果、とうとう1500座目になっていたのだ。温暖なところの由緒正しい山を記念にしようと選んだ山だ。修行僧が篭もり、法華経九千部を読み通したという由来がいい。
75才8カ月になっていた。社会人になってからでも半世紀に上る、たゆまない山歩き。満ち足りた気持ちで冬枯れの草原をくだった。
山歴をふり返って一番に印象が強い山というと、南アルプス白根山脈系の笊ケ岳(二六二九㍍)を上げたくなる。何度も挑戦計画を立てたが、若いころの苦い経験、二泊三日の登路の長さ、不安な単独行と重なり、なかなか登る機会に恵まれなかった。平成八年夏、新ルートを使って一泊で標高差一八〇〇㍍を踏破、山頂からの絶景に息を呑んだ会心の山行は忘れがたい。
近年、加齢とともに体力、気力が衰えるのは避けられないと自覚した。一昨年の四国での山行では下山中に転倒、足を数針縫う大ケガをしたし、倒木をまたぎ損ねて胸を強打したこともある。疲れから注意力が散漫に陥らないように山中で時々、大声を発して我が身を叱咤激励しているそうだ。
「危ないぞ、ボヤボヤしてると、危ないぞ」
二人の息子さんは、もう中年だが、子どものころよく山歩きに連れて行った。ケチケチ登山でジュース一本買い与えなかったのに、二人とも山好きに育ち、兄はマッターホルンやモンブランに登頂、弟もマッキンリー遠征に行ったりした。あるとき、息子さんから、こう言われた。
「おやじにもらった一番の財産は、山好きにさせてくれたことだな」
この話、高木さんはちょっと照れながら実にうれしそうに披露した。
こんごの山歩きについて高木さんは、反省をこめてと謙虚に話している。
「山の数を目標にした私がいうのはなんですが、ストレスの元ですね。どうしても粗雑な登山になりがちでした。家内といっしょに行くと、花の名前はどうとか、面倒だからと相手にしなかった。間違ってましたね。余生は山の滋味を味わいつくしたいですね」